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もちろんヨーダは居ない。僕にとってマスターヨーダクラスの人ってことだけど。
もう今はなくなってしまった大事な場所の主の一人、ミヤモトさんに会ってきた。数年前喉頭癌の手術をされてから、話をするのは初めてで、かなりご無沙汰。ちょっと緊張しながらだったのだけど、話をすると僕の知っているミヤモトさんだった。シャント発声なので、時々話し辛そうな場面はあったけど、静かな店ならそれほど気にならないくらい。
仕事は今何をしているのかって話では、ちょっともやもやしてる肩書の相談をして、なるほどって答えをもらえた(答えは内緒だけど)。
相変わらず、幅広い話題に触れながら一つのテーマについて深く掘り下げるって感じの展開だったのだけど、今日のテーマは「失われた後ろめたさ」という感情について。
後ろめたさはとても大切な感情で、例えば、世界の不幸な出来事や、将来起こるであろう不都合な出来事について考える時、それをいつも頭の真ん中に据えてしまうと思考停止を招きやすくなってしまうので、そういったことは頭の片隅に置いておくべき事柄なのだけど、決して忘れてはいけないことじゃない? で、そういった不公平や犠牲といった不幸な出来事がある一方で、我々は安寧な生活を送っていられるのだという後ろめたさを感じること、あるいはそれを背負っていることが大事って話。キリスト教にも仏教にもこれに当たる言葉がある。ということは、昔から人はそうした考え方を持って生きていたのではないかと想像できる。今の時代、その後ろめたさが希薄になっているために余計なことがあちこち、それこそ世界中で起きているのではないかということについて話しは続いた。
もし、我々がその後ろめたさをきちんと取り戻すことができれば、もしかしたら日本は再び存在感を取り戻すことができるかもしれない。だけど、残念ながら今のところその兆候はなく、このままではゆっくりと衰退していくんじゃないか…とか。あるいはそれを僕たちの世代はどう変えられるのか、あるいは次の世代にどう伝えれば変わるのかみたいなことを考えながら帰ってきた。
そうそう、僕があのお店に通っているとき、僕は人からの影響を受けやすいからといろいろと心配をかけていたみたいだった。母さん、ミヤモトさん、ありがとうございます。僕も自分の癖が分かってきて、だんだん距離を間違えないように、少なくとも気をつけることができるようになってきています。きっとそれは今日のような後ろめたさについて考えたりできるようになってきたことと関係しているに違いない。考え続けることというのはやっぱり大事だなと改めて思いました。今日も良い会だった。

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