20160625_「それでもドキュメンタリーは嘘をつく」感想
森 達也著 角川文庫
「僕は嘘つきだ。映像も。そしてこの文章も」
音楽とは関係ないけど、再び作曲家の友人からの推薦。
大学時代、何の番組か知らないけれど(当時僕はあまりテレビを見ていなかった)、僕の所属していたサークルもどきが取材された時のことを思い出した。
ディレクターらしき人が、「じゃあ、みなさん何か議論してください」的なことを言って、誰かが気の利いた(とディレクターが思う)ようなことを言うと、「あ、今のもう一度言ってもらえるかな。◯◯ってとこからカメラ回すから」と言うので、僕は相当驚いて、かなり引いたのに、その場にいたみんなは結構演技をするので(下手だけど)さらに驚いて引いた記憶。
あー、思えばそこからテレビを信用してないんだな。信用してないというか、全面的に信じることができないのはその記憶があるからだと思い至った。
「映像は、その誕生からフェイク(虚偽)だった」
「ドキュメンタリーだけではない、映像は全て作為の産物だ」
と森さんは言い切っていて、それは、
「ドキュメンタリーに不可欠な要素は、作り手が作り手であることの自覚だ。覚悟と言い換えても良い」
という言葉にある、覚悟を持ってそれを作っているということが分かったのが良かった。
言葉は違うけど、僕の物事(事象)に対する考え方は、「真実は無い」ただ「事実があるだけ」というもので、これは、独立してすぐの本当に嫌な経験のおかげで獲得できた大事なアイテム。
真実なんてそれを主張する側の視点でどうにでもなるし、誰もが事が起こったその瞬間には二度と立ち会えないので、誰にも分からないし判断できない。対して、事実はそれが有ったか無かったか、有ったのなら証明する、ということなので結構シンプル。
でもこれが映像の話になると状況は少し複雑になりそうで、事実を客観的に伝えるだけのニュースでも
「ストレートニュースで紹介される十秒間の悲惨な交通事故の現場でも、道路脇に添えられた花から撮るか、傍らを疾走するトラックから撮るかで、映像の印象はまったく変わる。これを決めるのは撮る側の主観なのだ」
ということが起こる。だからニュースを見ている時ですら、このニュースで伝えたいのはどういう意図かということを意識してみたほうが良さそうだと思った(ESD大事)。
あと、文庫版のあとがきに
「絶対的な指標など存在しない。この世界のすべては相対的な相互作用だ」
という一文があるのだが、僕も本当に実感してる。だからこの本で出てきたような「正義と邪悪」のような単純な二元論や「公正中立・不偏不党」などのできもしない理想論に絡め取られてはいけない。常に考え続けること。安易な答えを求めないこと。
想像していた内容とはかなり違う印象を受けたけど、読んでいて面白い本だった。
それと、折角良いビデオカメラがあるので、うまく撮れるようになりたいと思った(笑)
撮り方と編集方法を教えて下さい!(特定の個人を想定してお願い発信しています)
-memo-
- 「教室の子供たち」「絵を描く子供たち」(調べて見ること)
- 「Littlr Birds:イラク戦下の家族たち」(見ること)
- 「いのちの食べかた」(読むこと)
- 「The Fog of War, 2003」(見ること)
- 「スーパーサイズ・ミー」(見ること)