20200221_障害と向き合う場面での当事者性について
昨日の続き。
トーク後の質問コーナー(?)で
自分は障害者の家族も居らず、知り合いもいないがどうしたら当事者として障害と向き合えるのか(細かいところは失念)
というような趣旨の発言があって、神戸さんも松崎さんもまぁ、結論は出ない訳なのだけど…えー、それは、答えのない問だから…良いきっかけを与えてもらったと思って僕自身のことを書いてみようと思う。
まず、僕が障害者(と僕が認識している人達)と関わるようになった経緯を。
最初は従兄弟。ダウン症の従兄弟がいる。もうそれほど交流はないのだけど、恐らく僕が一番最初に接した障害者はこの子だった。
小学2年で転校したのだけど、その同じクラスに一人、知的障害の子がいた。体は大人くらい大きいのに入学前の僕の妹より幼かった。今思い出すと、その子は温和な子でパニックになったりするような場面は見たことがなかった。僕らはその子をからかったりすることはあったように思うけど、割と仲良く遊んでいた気がする。
中学に進むとやはり同じクラスに知的障害の子が居た。彼は恐らくサヴァン症候群で、日付に関する記憶がものすごく優れていた。レインマンが公開された頃、よく彼のことを思い出した。
大人になってからは、知人の子供さんやムスメの幼稚園のお友達に知的障害のある子がいた。
その後、障害支援の仕事に携わったり、実際に施設の経営にも関わったので、社会とのつながりという視点で障害を考える機会も得られた。
最近では、介護ってほどでもないけど親世代に感じることも増えてきた。
そう。実は日常的には数年に一人くらいの割合で、直接関わりを持つ障害者はいたんだなって気がついた。ただ、当事者って気持ちにはなったことがない。恐らく僕にとっては、自分か子供が障害者だというのが当事者の基準になっていたんだと思う。
障害支援の仕事をしていると、障害を持つ子供の親の多くは、罪悪感というか、社会に対してものすごく遠慮をしたり、我慢をしているように見える。ただ、その逆もあって、僕は当事者でもないのに余計なことは言うべきじゃないとか、やはり当事者じゃないという遠慮の気持ちが確実にある。
そこに線があるね。悪意ではないにせよ、僕は線を引いてたと思う。
一昨日の神戸さんの、世の中には障害者とまだ障害者にねってない人しかいない、という考え方だと、誰もが当事者で、そうなったとき、自分はどうなっていたいか、が、そのまま、どう向き合うかに通じるんじゃないかと思った。
僕の前に引いた線はどうしたら薄くなっていくのかを考えるヒントになったかな。