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最後って書いておきながら(苦笑)まぁ、ちょっとここ数日の流れだけでなく、これからの自分の思考について考える…ってなんか変な言い回しだな(苦笑)…ときに気をつけたいことをメモってことで。

今の世の中は自分で調べようと思えば必要なかなり多くの情報を部屋にいながらにして、あるいは、なんなら電車に揺られながらでも、得ることができる。しかもお金をかけずに。
でも、不寛容は起こる。むしろ、情報が多いがために一方的なものの見方やバランスに欠ける意見が増えているようにも感じられる。いや、これは感じられるだけで、実際には増えているわけではないかもしれない。単に見えやすくなったってだけかも(苦笑)

どうしてそんなに不寛容な状況が生まれるかってことなんだけど、僕は2つ大きな要因があるように思う。
一つは、多くの人が切り取られた二次情報で状況を判断しているってこと。二次情報に価値がないのではなく、二次情報は、誰かが見た事実をその人の判断で切り取り、再構築した情報ってことを理解した上で取り込まれるべき。なのに、なかなかそうならないんだな。なんとなく分かるけどね。例えば、タイトルだけ見て「これはけしからん(あるいは素晴らしい)!」からシェアまでのハードルが極端に低いから、タイトルだけで記事の中身すら見ずに多くの情報があたかも大勢の人に支持されて(ディスられて)いる、って状況が起こりやすい。で、その状況を見てますますそれは正しい(間違っている)って状況が強化されていくみたいな。そんなイメージ。

そして、2つ目の理由でもあるのだけど、強化されていくのは社会の流れとして、というより、ネットに接続されただけの、分断された個人の思考が集まって、あたかも社会を形成しているような状況の中…分かりにくいな。つまり、僕たちは大抵自分に都合の良いものを選択して情報を集めがちだし、システムは僕たちの好む方向で情報を分類しがちってこと。
それを理解した上で自分の手元にあるその情報がどういうものなのかを考えないと、自分は正しい、意見の違う相手は間違えている、と考えがちなのではないか。だって、自分の周りにある情報の多くは自分が正しいことを裏付けるものばかりだから。

子供のころ父に、沢山の本を読むのは様々な考え方に触れ、バランスの取れた思考力をつけるため、って言われたことがあるのだけど、まさにその通りで、様々な視点から物事を捉えられないとバランスなんて取れない。
なのに、僕もTwitterやFacebookを始めた頃、何度もやらかしてた。「!」>「シェア」みたいな(苦笑)だからこそ、目の前にあるものは誰がどんな意図で伝えようとした情報なのかってことを考えながらインプットする必要があると思うんだよね。アウトプットするなら尚更。

自分と違う意見に出くわしたとき、一旦受け止めて自分なりに調べて考えるってことをするだけでだいぶ違うと思うんだよね。自分でも忘れがちなので書いておこう。

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