20161114_チャンスの種は意外と近くに落ちていることについて
このところ週単位で物事が前に進まず、色々なことが停滞している感じだった。
停滞させていたのは自分なんだけど。
やりたいこと、手を付けていることは幾つも有ったのに、どれも中途半端な状態で完成していなかった。
理由として思い当たることは、例えば、何かを始める時、細かい未完成の部分が気になってスタート出来ないとか、商品の登録作業の前に、見栄えの良い商材の写真を撮りたくなってしまったり、とか。
でも一番は、大きな未完成プロダクトがその状態のままになっていることじゃないかと気がついた。自分一人ではうまく完成させられない部分があって止まってしまっているのだけど、それが気になって他のことになかなか手を付けられなかったのだ。
すごく単純なことは気が付かないんだなってことと、何かをやる気になるのは気分なんだということが分かった。
それに気が付いてから今週は3つほど未完成の仕事を終わらせたというか、スタートさせた。うん、スタート(苦笑)
だって、未完成でもスタートできるから。やればいいだけ。自分が課題だと思っていることを一旦隣において、人の意見を先に聞いてしまったほうが良い。
やり始めると不思議なもので、またちゃんと回り始めるのね。
しかも、その種になるものは本当に身近なところにあって、ひとつは数ヶ月に一度予定がある大口の仕事が電話一本で急に早まったことだったり、もう一つは全く違う仕事の話で相談した人の指摘で、自分では思いつかなかった別な仕事のゴールの一つが何と叔父の仕事と結びつくことだったりと、身近なところで役に立てる仕事が作れるのは非常にありがたい。
どうして一本の電話で急に仕事が決まったり、人に教えてもらって親戚の仕事を手伝うことになったりということが起こるのか考えてみた。
何もアクションしないときには見えないのに、アクションを起こすことによって色々なことが浮かび上がってきて、目につくようになるというのは、人は見たいものしか見ていないからということもあるかもしれないけれど、もしかすると、世の中はちょっとしたきっかけの重なりで成り立っているのではないかとも思う。
きっかけは恐らく点ではなく、短い線のような形、あるいは小さな面積を占めるような面の形で、互いに重なり合って散らばっているイメージ。点在であったとしても単体で点在しているのではなく、きっかけが集まったグループの様な感じか。あるいは、きっかけはもっと沢山散らばっていて、重なって目立って見えるようなきっかけの集合が時々出来上がっていくのか。とにかく、チャンスの種はきっと思っているより沢山その辺に転がっているっぽい。
それと、もう一つ、チャンスの種は自分でも知らないうちに蒔いている可能性もありそう。時々それが育って(その種が核になって周りのきっかけを集め)目につく様になったり。
まずは、そのきっかけを見つけられる準備を整えることが大事。これは多分、キョロキョロ、ウロウロすることや、色々なことに頭を突っ込んで見ていること、あとアンテナの感度を上げる。感度を上げるのは日々の訓練が必要そうだけど、キョロキョロ、ウロウロ、頭突っ込むは少し意識して寄り道を増やせばできそう。
で、次にそれを拾い上げて育てられるようにすることが大事なんだろうな。気がつく回数が増えれば拾い上げることはできそうだけど、育てるのは簡単じゃない気がする。まさに今、僕の課題は育てられるかどうかというところか。
あー、今朝植物たちに水をあげてくるのを忘れた。